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軍艦島視察レポート 第二日

軍艦島ミュージアム

昨日訪問した岡まさはる記念館、そのうっとうしい記憶が吹っ飛んでしまう内容のミュージアムでした。このミュージアムは長崎カステラを製造している会社が世界記憶遺産となった事を記念に軍艦島ツアーとセットで軍艦島の様子が紹介されています。ここでは最新の映像技術を駆使して軍艦島の様子を展示するとともに、当時軍艦島で生活していた人の生の話が聞ける内容となっていました。3000枚の当時の写真は皆明るく楽しげで、監獄と言うイメージは全くありません。後日の見学で、日本人も朝鮮人も高い収入を得て、同等に扱われており、むしろ日本人が危険な処を採掘して朝鮮人には簡単な処を任せるようにしている事実がわかりました。

明治以降の産業革命で石炭は有力な日本のエネルギーを支えていました。特に軍艦島の石炭は良質で、福岡八幡製鉄所の鉄の生産に大きな貢献をしました。当時は朝鮮人も同じ日本人であり、日本の発展の為に、大東亜(太平洋)戦争勝利の為に使命感を持って働いていました。

軍艦島(端島)

そうした学習を経ていよいよ軍艦島フェリーに上陸しました。生憎、雨模様でしたが、波が比較的穏やかで船は無事軍艦島に到着しました。軍艦島に来られる日は限定され我々はラッキーでした。

軍艦島は形が軍艦に似ているからと付けられたもので本当の名前は端島です。端島では1810年頃に石炭が発見され、1890年三菱合資会社が本格的海底炭鉱として創業が開始されました。狭い島で人口が最盛期には5300人、東京の9倍の人口密度。当時日本の最先端技術である日本初の高層集合住宅が建設されました。パチンコ、麻雀、映画館と言った娯楽施設もあり、島民全員揃っての祭りや運動会が行われました。

人が密集していたこともあり女性問題のトラブルで喧嘩が絶えなかったそうです。しかし荒くれ男も女性の一喝で大人しくなったとのことです。大きな家族が助け合って生きた思い出の場所となった。

エネルギー革命により、エネルギーの需要が石炭から石油に移ったことで1974年に閉山になりました。島を離れた時は皆涙を流して見送ったそうです。無人島となり2015年世界遺産になるまでは廃墟の荒れ放題。しかし、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録され軍艦島は廃墟の島から観光の島へと変貌しました。危険を伴うため、見学場所は遠くからの場所見ざるを得ない場所もありましたが、その廃墟の中からは明るい笑い声が聞こえるような錯覚を覚えるように思えました。

【クイズの解答】

答え:お墓、火葬場
解説:逆に言えばそれ以外の施設は揃っていました。娯楽施設もあり、日本人も朝鮮半島出身者も余暇に行くことができました。しかし軍艦島(端島)には火葬場が無かったので、で人が亡くなられた時は隣の島へ搬送して荼毘に付し、埋葬していました。

【クイズ】

問題:軍艦島(端島)で実際に起こった出来事は次のなかにあるでしょうか?

  1. 米軍の空爆
  2. 日本軍人による朝鮮人炭鉱夫への拷問
  3. 朝鮮人炭鉱夫による蜂起

解答と解説は次回の更新で。

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