作成者: shinjitsunotane
第2回講演会を開催します
「真実の種」を育てる会では、10月6日に、講演会を開催します。
詳細は以下のチラシを御覧ください。
また、学生さんをお連れくださった方も無料でご入場いただけます。
国連派遣緊急寄付への御礼
慰安婦の真実国民運動となでしこアクションは、8月に国連で開催される「人種差別撤廃委員会」への派遣費用について、7月半ばより広く緊急支援のお願いをさせていただきました。
その結果、本日(8月10日)確認分で、133名の方より、213万5千円ものご寄付を頂戴しました。
これは予算140万円を大きく上回るもので、その反響の大きさに驚くとともに、国連活動への皆様からの期待の大きさを改めて強く感じております。
皆様から頂戴したご寄付は、国連活動を通じて必ずや日本名誉を守るために大切に活用してまいります。
なお、ご住所等がわかる皆様には礼状を送付させていただきましたが、約半数の方につきましては不明であったため、この場をお借りして御礼申し上げる次第です。
本当に有難うございました。
今回の派遣に関する活動報告と会計報告は派遣団帰国後に改めて発信させていただきます。
また、帰国後の8月23日(木)16時より、日比谷のプレスセンタービル9階大会議室で、帰国報告記者会見を開催します。
一般の方も見学可能ですので、もしご都合のよろしい方はご参加ください。
今後とも私どもの慰安婦問題への取り組みにお力添えの程、どうぞよろしくお願い申し上げます。
平成30年8月10日(金)
「慰安婦の真実」国民運動 http://ianfu-shinjitu.jp/
なでしこアクション http://nadesiko-action.org
「真実の種」第一回講演会報告
日本と韓国の本当の歴史
本年四月二十一日、「真実の種」を育てる会の事業である「日本人学生への歴史問題講座」として、現役の高校教師である黒田裕樹先生を講師に迎え「日本と韓国のほんとうの歴史」をテーマに第一回講演会を開催しました。
本講演会で黒田先生は、詳細なスライドと十六ページのレジュメを元に、明治時代からの日韓関係を説明されました。先生の講演はこうした多くの資料を元に緩急とユーモア含みのある話で参加された聴衆を惹きつけていました。
現在の学校教育では一般的に、明治政府が朝鮮政府に対して不平等条約を押し付け、外交権を奪い、植民地としたのだと教えられてきました。しかしこれは戦勝国が一方的に日本を見た歴史観です。黒田先生は当時の日本と朝鮮の間には「不幸なすれ違い」があり、様々な視点で見ることの大切さを述べられました。
当初、日朝関係は良好でしたが、朝鮮半島内のクーデターをきっかけに、日本と清国がそれぞれ派兵しました。この時の日本の姿勢が「日本は清国に比べて弱腰だ」と朝鮮にみなされ、朝鮮国内では、清国に頼る事大派が強くなりました。その一方で、日本の近代化を知り、頼ろうとした朝鮮国内の人々もいました。
朝鮮の中には、ロシアに軍事的な保護を求める勢力も現れましたが、この動きが発覚すると清国は、軍隊を派遣して朝鮮への圧迫を強めます。こうして、朝鮮半島は、日本、清国、ロシアの勢力争いの舞台となりました。日本は朝鮮を独立国にしたのに対して、清国は、朝鮮が長く朝貢している属国であるという主張を展開し、結果日清戦争が起こります。日清戦争は日本が勝利しました。
これにより、清国が手を引くことになりましたが、代わりにロシアが朝鮮半島に進出してきます。日本にとっては、朝鮮半島における影響力が清国からロシアに変わるだけ、すなわち日清戦争の意味がなくなってしまいます。その後、様々な経緯があり、日露戦争が勃発し、最終的に日本が勝利し朝鮮の独立が担保され、朝鮮の独立は保ちながら、外交権や軍事権を日本が確保し、「保護国」としました。
朝鮮統監府の初代統監である伊藤博文は、朝鮮の独立を保ちながら近代的な政権を誕生させようとしていましたが、安重根によるテロによって伊藤博文が殺害されたことにより、韓国世論は、一進会を始め次第に併合へ傾くようになりました。それでも、日本政府は日韓併合に対しては慎重でした。国際関係にどのような影響をもたらすかを見極めようとしていたからです。しかし、国際世論の承認の下、一九一〇年に朝鮮を併合します。日本の朝鮮統治は当時国際的にも評価され、アメリカのマッコイ少将が朝鮮の近代化に対して日本の植民政策の妥当性を初代総督の宇垣一成に述べています。
私達はかつて、満州事変を発端に、日本が東アジアを侵略戦争したと授業で教えられてきました。しかし、それ以前の明治維新、日清日露戦争で私達の祖先が何を守ろうとしたのかを考えることこそが、本当の歴史を知ることなのだと感じました。
日韓合意について
また、黒田先生は、二〇一五年十二月に結ばれた「日韓合意」についても言及されました。「日韓合意」は、慰安婦問題が「不可逆的に」解決されたという国際公約であり、蒸し返すことは許されないものです。日本政府は、韓国が合意に基づいて設立した財団に対し十億円を拠出し、日本側の履行すべき事項は果たしました。しかし、朴槿恵前大統領の弾劾で誕生した文在寅大統領政権は、二〇一八年一月に「日韓合意に対する新たな方針」を発表し、慰安婦問題を蒸し返すようになりました。この流れの中、慰安婦問題が日韓友好の「足かせ」とならないよう、私たち日本人は、韓国側の冷静な対応と国際公約の履行を求めることが必要であるとまとめられました。
先生の「教え方」が重要
日本人学生向けに開催したこの歴史講座が試験や受験に役に立たなければ意味がないのではないかという疑問を抱かれる方もいらっしゃるかもしれません。多くの高校歴史教科書では未だに慰安婦の記述なども残っており、センター試験では自虐的な出題が問題になることもあります。この点にも黒田先生は明快な解がありました。大手の山川出版社の高校歴史教科書を参考文献に使用し、その中にある重要語句をあえて盛り込みながら、私達の国に誇りが持てる講義を展開されたからです。若者が教育で将来日本にどのような思いを抱くか、それはどのような教材であっても、先生の「教え方」が生徒考え方の形成に重要であることを実感しました。
今後も、「真実の種」を育てる会は、日本人学生対象の講演会を開催します。親戚やお知り合い、特に学生さんをお誘いいただきご参加を心よりお待ちしております。
8月8日~11日に、横浜にてパネル展を開催します。
国連人種差別撤廃委員会への意見書に賛同しました。
「真実の種」を育てる会は、慰安婦の真実国民運動および、なでしこアクションが中心となって作成した国連人種差別撤廃委員会宛ての意見書に賛同しました。
慰安婦の真実国民運動および、なでしこアクションは、これに伴い8月15日から国連に派遣団を送ります。このため、広く支援を呼びかけております。
わたしたちの意見書は委員会のサイトに掲載されています。是非ご覧ください。
原文英語 https://bit.ly/2Lw5kb1
日本語訳 https://bit.ly/2NuNDcj
6月13日~16日にパネル展示会を開催します
今回から市民参加型にしました。会場内で議論、チラシ資料等持ち込自由、又動画発信をやられる方はご自分が主張したいパネルの前でスピーチすることが出来ます。
皆様の来場をお待ちしています。
軍艦島視察レポート 第三日
軍艦島資料館
3日目には野母崎町の「軍艦島資料館」を見学に行きました。資料館の近くでは「軍艦島見物スポット」もあります。そこからは細長い軍艦島を真横から見ることができ、荒波の向こうにある黒い影は、本当の軍艦のようでした。
資料館の中には、当時の島の作業や生活風景、歴史や文化が写真やパネルで展示されていて、更には、映像でも見ることができました。前日の軍艦島ミュージアム、軍艦島上陸見学の感動さめやらぬ中で、しっかりその「おさらい」をしました。また、ここには明治初期より日本のエネルギー産業を長く支えた「石炭採掘の歴史」についても詳しい展示があり、全国各地の主な炭鉱が紹介されています。その中でも軍艦島の石炭は非常に良質で、日本の産業の発展に確実に寄与しました。だからこそ軍艦島はこの地域の人々にとって、大きな誇りなのだと感じます。
その後九州最西端に位置する「権現山展望公園」に足を延ばしました。風は強かったですが天気はよく、野母崎半島の海岸線や軍艦島も遠くに見ることができました。ここはかつての遠見番所跡だったそうで、見回す限り海が眺められ、九州で一番最後に、沈む夕日を見ることができる場所だそうです。その美しい風景は、心に残りました。軍艦島を背景に撮影するには最もオススメポイントです。
この日は長崎市内から少々離れた場所(車で40分~50分程)の見学となりましたが、さらに軍艦島を知り、誇りに思えるようになりました。これからもぜひ多くの方に訪れてもらいたいものです。
映画「軍艦島」の嘘
韓国で制作され、公開された映画「軍艦島」では、大東亜戦争中に日本が朝鮮人に対して悪逆非道を尽くしたことが描かれています。一方ではこのことをフィクションとしながらも、パリのユネスコで開催された上映会で映画の製作者は映画の内容は歴史の真実であるかのように語っています。視察の結果と史実を突き合わせた結果、この映画から見えてきた「嘘」について、「真実」で反論します。
元島民の方々の証言も動画で見る事ができその中に
朝鮮人のことが出てきました。
「30号棟のアパートには朝鮮の 人達も住んでいて
行き来があり、同級生にも朝鮮の人が いました。
一緒に遊んだ後、キムチ入りの夕飯をご馳走になったり
親も惣菜などを分け合うこともありました。」
「8月15日に朝鮮人はまとまって、島から出て行きました。
島の人達全員船着場まで送りに行き、
朝鮮人が乗った「むらさめ丸」という船が見えなくなるまで
島民は岸壁に並んで手を振っていました。」
端島では日本人も朝鮮人も仲良く暮らしていて、
「軍艦島=地獄島」のように言う事は、
その当時端島に住んでいた島民を貶める事なると思いました。
「端島」通称「軍艦島」は、訪れる前に抱いていた冷たいイメージとは真逆の仲間意識の強い、愛情に溢れたコミュニティでした。島の建物は現在は人が住まないため廃墟と化してはいますが、昭和49年に島の鉱山が閉鎖されるまでは、最先端で、その姿は今も威風堂々としています。旧島民は日本人も朝鮮人も同じマンションに住み、同じ学校で机を並べて勉強していました。
韓国の捏造プロパガンダ映画で一番傷ついているのは、軍艦島の旧島民の方達ではないでしょうか。
この狭い島に昭和35年には5267人もが住んでいました。炭鉱で働く力も強い男の人達が多数いて、炭鉱を掘り、武器にもなる道具も、爆薬も身近にあるのに、島には警官2名しかいませんでした。韓国映画で描かれているのとは全く異なり、日本の兵隊は1人もいなかったし、島への米軍の空襲もなかったのです。
どうか、平和と愛情に満ちた軍艦島の真実の歴史を世界中の人達に知って欲しいと思います。
時雨に霞む中、目の前に現れた端島は正に巨大な軍艦。日本の存続の為戦い続けた軍艦島がユネスコ世界文化遺産に登録されたのは快挙だ。日本を加害者として攻撃を仕掛ける敵は外国だけではない。
国内にも反日包囲網がある。端島の近くに建つ「岡まさはる記念長崎平和資料館」に充満していた日本を貶めんとするどす黒い執念。
展示資料は史実に反し、それを礼賛する学生達の文集が並ぶ。まるで「国内の敵」養成機関だ。こんな反日総攻撃をくぐり抜けて軍艦島は勝ったのだ。残った建物や資料館等にある真実の圧倒的迫力に優るものはない。人々の日常を撮った夥しい写真、道具、記録は日
本人の心意気や勤勉さ等を蘇らせた。日本人として心から端島を誇りに思った。
答え:すべてありませんでした。
解説:
①軍艦島(端島)の炭鉱から採掘した石炭を海上輸送中に輸送船が撃沈されたことはあります。
②軍艦島(端島)には、日本軍や憲兵というような軍人はいませんでした。治安は警察官がおり、交番や留置場もありましたが、収監されたのは酔っぱらいの保護などの軽微な事案であったそうです。
③軍艦島(端島)は、面積0.06平方キロメートル、外周約1.2キロメートルという小さな島です。このような小さな島の中で暴動を起こすような動きがあれば、島自体の生活が崩壊してしまうため、日本人も朝鮮人もお互いに協力して島の中で暮らしていました。
第1回「真実の種」を育てる会講演会を開催しました
平成30年4月21日、文京シビックセンターにて、第1回「真実の種」を育てる会講演会を開催しました。
詳細はまた報告いたしますが、産経新聞に取り上げていただきました。
軍艦島視察レポート 第二日
軍艦島ミュージアム
昨日訪問した岡まさはる記念館、そのうっとうしい記憶が吹っ飛んでしまう内容のミュージアムでした。このミュージアムは長崎カステラを製造している会社が世界記憶遺産となった事を記念に軍艦島ツアーとセットで軍艦島の様子が紹介されています。ここでは最新の映像技術を駆使して軍艦島の様子を展示するとともに、当時軍艦島で生活していた人の生の話が聞ける内容となっていました。3000枚の当時の写真は皆明るく楽しげで、監獄と言うイメージは全くありません。後日の見学で、日本人も朝鮮人も高い収入を得て、同等に扱われており、むしろ日本人が危険な処を採掘して朝鮮人には簡単な処を任せるようにしている事実がわかりました。
明治以降の産業革命で石炭は有力な日本のエネルギーを支えていました。特に軍艦島の石炭は良質で、福岡八幡製鉄所の鉄の生産に大きな貢献をしました。当時は朝鮮人も同じ日本人であり、日本の発展の為に、大東亜(太平洋)戦争勝利の為に使命感を持って働いていました。
軍艦島(端島)
そうした学習を経ていよいよ軍艦島フェリーに上陸しました。生憎、雨模様でしたが、波が比較的穏やかで船は無事軍艦島に到着しました。軍艦島に来られる日は限定され我々はラッキーでした。
軍艦島は形が軍艦に似ているからと付けられたもので本当の名前は端島です。端島では1810年頃に石炭が発見され、1890年三菱合資会社が本格的海底炭鉱として創業が開始されました。狭い島で人口が最盛期には5300人、東京の9倍の人口密度。当時日本の最先端技術である日本初の高層集合住宅が建設されました。パチンコ、麻雀、映画館と言った娯楽施設もあり、島民全員揃っての祭りや運動会が行われました。
人が密集していたこともあり女性問題のトラブルで喧嘩が絶えなかったそうです。しかし荒くれ男も女性の一喝で大人しくなったとのことです。大きな家族が助け合って生きた思い出の場所となった。
エネルギー革命により、エネルギーの需要が石炭から石油に移ったことで1974年に閉山になりました。島を離れた時は皆涙を流して見送ったそうです。無人島となり2015年世界遺産になるまでは廃墟の荒れ放題。しかし、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産の一つとして世界文化遺産に登録され軍艦島は廃墟の島から観光の島へと変貌しました。危険を伴うため、見学場所は遠くからの場所見ざるを得ない場所もありましたが、その廃墟の中からは明るい笑い声が聞こえるような錯覚を覚えるように思えました。
答え:お墓、火葬場
解説:逆に言えばそれ以外の施設は揃っていました。娯楽施設もあり、日本人も朝鮮半島出身者も余暇に行くことができました。しかし軍艦島(端島)には火葬場が無かったので、で人が亡くなられた時は隣の島へ搬送して荼毘に付し、埋葬していました。
問題:軍艦島(端島)で実際に起こった出来事は次のなかにあるでしょうか?
- 米軍の空爆
- 日本軍人による朝鮮人炭鉱夫への拷問
- 朝鮮人炭鉱夫による蜂起
解答と解説は次回の更新で。