軍艦島資料館
3日目には野母崎町の「軍艦島資料館」を見学に行きました。資料館の近くでは「軍艦島見物スポット」もあります。そこからは細長い軍艦島を真横から見ることができ、荒波の向こうにある黒い影は、本当の軍艦のようでした。
資料館の中には、当時の島の作業や生活風景、歴史や文化が写真やパネルで展示されていて、更には、映像でも見ることができました。前日の軍艦島ミュージアム、軍艦島上陸見学の感動さめやらぬ中で、しっかりその「おさらい」をしました。また、ここには明治初期より日本のエネルギー産業を長く支えた「石炭採掘の歴史」についても詳しい展示があり、全国各地の主な炭鉱が紹介されています。その中でも軍艦島の石炭は非常に良質で、日本の産業の発展に確実に寄与しました。だからこそ軍艦島はこの地域の人々にとって、大きな誇りなのだと感じます。
その後九州最西端に位置する「権現山展望公園」に足を延ばしました。風は強かったですが天気はよく、野母崎半島の海岸線や軍艦島も遠くに見ることができました。ここはかつての遠見番所跡だったそうで、見回す限り海が眺められ、九州で一番最後に、沈む夕日を見ることができる場所だそうです。その美しい風景は、心に残りました。軍艦島を背景に撮影するには最もオススメポイントです。
この日は長崎市内から少々離れた場所(車で40分~50分程)の見学となりましたが、さらに軍艦島を知り、誇りに思えるようになりました。これからもぜひ多くの方に訪れてもらいたいものです。
映画「軍艦島」の嘘
韓国で制作され、公開された映画「軍艦島」では、大東亜戦争中に日本が朝鮮人に対して悪逆非道を尽くしたことが描かれています。一方ではこのことをフィクションとしながらも、パリのユネスコで開催された上映会で映画の製作者は映画の内容は歴史の真実であるかのように語っています。視察の結果と史実を突き合わせた結果、この映画から見えてきた「嘘」について、「真実」で反論します。
元島民の方々の証言も動画で見る事ができその中に
朝鮮人のことが出てきました。
「30号棟のアパートには朝鮮の 人達も住んでいて
行き来があり、同級生にも朝鮮の人が いました。
一緒に遊んだ後、キムチ入りの夕飯をご馳走になったり
親も惣菜などを分け合うこともありました。」
「8月15日に朝鮮人はまとまって、島から出て行きました。
島の人達全員船着場まで送りに行き、
朝鮮人が乗った「むらさめ丸」という船が見えなくなるまで
島民は岸壁に並んで手を振っていました。」
端島では日本人も朝鮮人も仲良く暮らしていて、
「軍艦島=地獄島」のように言う事は、
その当時端島に住んでいた島民を貶める事なると思いました。
「端島」通称「軍艦島」は、訪れる前に抱いていた冷たいイメージとは真逆の仲間意識の強い、愛情に溢れたコミュニティでした。島の建物は現在は人が住まないため廃墟と化してはいますが、昭和49年に島の鉱山が閉鎖されるまでは、最先端で、その姿は今も威風堂々としています。旧島民は日本人も朝鮮人も同じマンションに住み、同じ学校で机を並べて勉強していました。
韓国の捏造プロパガンダ映画で一番傷ついているのは、軍艦島の旧島民の方達ではないでしょうか。
この狭い島に昭和35年には5267人もが住んでいました。炭鉱で働く力も強い男の人達が多数いて、炭鉱を掘り、武器にもなる道具も、爆薬も身近にあるのに、島には警官2名しかいませんでした。韓国映画で描かれているのとは全く異なり、日本の兵隊は1人もいなかったし、島への米軍の空襲もなかったのです。
どうか、平和と愛情に満ちた軍艦島の真実の歴史を世界中の人達に知って欲しいと思います。
時雨に霞む中、目の前に現れた端島は正に巨大な軍艦。日本の存続の為戦い続けた軍艦島がユネスコ世界文化遺産に登録されたのは快挙だ。日本を加害者として攻撃を仕掛ける敵は外国だけではない。
国内にも反日包囲網がある。端島の近くに建つ「岡まさはる記念長崎平和資料館」に充満していた日本を貶めんとするどす黒い執念。
展示資料は史実に反し、それを礼賛する学生達の文集が並ぶ。まるで「国内の敵」養成機関だ。こんな反日総攻撃をくぐり抜けて軍艦島は勝ったのだ。残った建物や資料館等にある真実の圧倒的迫力に優るものはない。人々の日常を撮った夥しい写真、道具、記録は日
本人の心意気や勤勉さ等を蘇らせた。日本人として心から端島を誇りに思った。
答え:すべてありませんでした。
解説:
①軍艦島(端島)の炭鉱から採掘した石炭を海上輸送中に輸送船が撃沈されたことはあります。
②軍艦島(端島)には、日本軍や憲兵というような軍人はいませんでした。治安は警察官がおり、交番や留置場もありましたが、収監されたのは酔っぱらいの保護などの軽微な事案であったそうです。
③軍艦島(端島)は、面積0.06平方キロメートル、外周約1.2キロメートルという小さな島です。このような小さな島の中で暴動を起こすような動きがあれば、島自体の生活が崩壊してしまうため、日本人も朝鮮人もお互いに協力して島の中で暮らしていました。